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英霊剣豪7番勝負 登場人物解説⑦(セイバー②)ネタバレ有り

渋くてかっこいい!
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柳生 宗
人物
身長/体重:181cm・71kg
出典:史実
地域:日本
属性:秩序・中庸  性別:男性

三代将軍・家光が宗矩を呼ぶ際の愛称は「柳但(りゅうたん)」であったと記録されている。柳生と但馬から一文字ずつを取っての愛称である。
江戸柳生最強の剣士の一人。

感情を交えず、
氷の理性ですべてを見据える合理性の鬼。
術理とは合理であり、すなわち剣きわまれば、
自ずと無駄なくすべてが叶う───

情熱を口にせず、逸(はや)らず、焦らない。
目的へ到達するための最善、最短の手段を至極冷静に突き詰める。味方となれば頼もしいが、敵となればあまりに恐ろしい、氷にして鋼鉄の男。
柳生石舟斎の子にして柳生十兵衛の父として知られる、剣の天才。
大坂夏の陣(1615年)では将軍秀忠を守り、
武者七名を瞬時に斬り捨てたという。
将軍家光からは死後「剣術無双」と讃えられた。
兵法家にして政治家。諸大名やその子弟に新陰流を指南し、自らの弟子を有力な大名の剣術師範として送り込むした。
時代小説や時代劇では稀代の陰謀家とされる。
江戸時代初期、柳生家の地位を一万二千五百石の大名にまで押し上げてみせたからには、清廉潔白なだけでは有り得ないと考えられたのだろう。
先読みに長け、島原の乱の拡大をいち早く見抜いていたとも語られる。
寛永十四年(1637年)、キリシタン宗徒による反乱の報せが届いてすぐの頃、宗矩は追討使の任を受けた板倉内膳正重昌を必死に引き留めようとした。何故と問い掛けた将軍家光に、宗矩は「宗教徒のいくさはすべて大事」「重昌殿は討ち死にするでしょう」と答えたという。
事態は宗矩の読み通りに推移した。一万五千石の大名である重昌では、西国大名を率いるのに不足であり、結果として苦戦を強いられたのである。状況を重く見た将軍家光は重臣・松平信綱を総大将として送り込んだが、重昌はそれを知って焦り、信綱が到着するよりも前にと敵陣へ突撃し、あえなく討ち死にを遂げたのだった。
生前、宗矩は武蔵の存在を非難したという逸話がある。宗矩は「武蔵は西軍の者」「徳川の敵」という旨の言葉を述べた、と。
生前の宗矩は武蔵と激突する事はなかったし、
相手をする事もなかったが、
実のところ、気には留めていたのだ───
と本作では定める。故に『英霊剣豪七番勝負』では武蔵との対決にこだわった。彼女が、自らの世界の「宮本武蔵」とは別人だと知りながら。
英霊としてカルデアに召喚された宗矩は、武蔵の腕と在り方を認めている。自らの世界の「宮本武蔵」についてどう思っているかは……今もって不明である。

能力
新陰流:A++
柳生新陰流の奥義を修めている。
幼少から二十四才までの年月、宗矩は父宗厳(石舟斎)から直接剣を学び、育った。
本スキルをAランク以上で有する宗矩は、
剣のわざのみならず、精神攻撃への耐性をも有している。参禅を必須とする新陰流の達人は、惑わず、迷わない。

無刀取り:A
剣聖・上泉信綱が考案し、
柳生石舟斎が解明した奥義。
たとえ刀を持たずとも、新陰流の達人は武装した相手に勝つという。

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宝具
『剣術無双・剣禅一如』
ランク:A 種別:対人奥義
レンジ:0~10 最大捕捉:1人

不動の心を持ちながら、同時に、自由に在れ───
沢庵和尚がかつて語った剣の極意は、ついに、
柳生宗矩の中で完成を迎えた。
剣は生死の狭間にて大活し、
禅は静思黙考のうち大悟へ至る。
無念無想の域から放たれる剣禅一如の一刀は、
ただ一撃にて、必殺を為す。

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史実
柳生 宗矩は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。
宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだとされる。若年時の行動は記録にないが、父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となり、仕官の口を求めて 豊臣秀吉の小田原征伐で陣借りをしていたとする話が伝わっている
父・宗厳が黒田長政の仲介により徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際に、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる
大坂の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を愛刀「大天狗正家」で瞬く間に倒したという。 なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。

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大坂の陣の翌年、元和2年(1616年)には友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件の交渉と処理に活躍し、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰している。その約束で直盛の説得を行った宗矩は結果的に直盛を陥れたことになるが、宗矩はそれを終生忘れぬためなのか、元々の柳生家の家紋「地楡(われもこう)に雀」に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて使い続けている。これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。またこの際、坂崎の嫡子・平四郎を引き取って200石を与えて大和に住まわせ、2人の家臣を引き取り、その内1人には200石を与えている。
江戸麻布日が窪にある自邸で病む。同年3月20日、病が重い事を聞いた家光が見舞いに訪れ、病床の宗矩に新陰の奥義を尋ね、望みがあれば申し出るよう命じた。3月26日、死没。享年76。その死を惜しんだ家光の推挙により従四位下を贈位された。1万石の身で従四位下の贈位は異例であり、それだけ家光からの信頼が厚かったことを示すものと言える。

剣士としては、江戸初期の代表的剣士の一人として知られる。将軍家兵法指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置し、「古今無双の達人」「刀術者之鳳(おおとり)」「父(石舟斎)にも勝れる上手」「剣術古今独歩」「剣術無双」など様々に賞賛されている。また、新井白石や勝海舟なども自著にて賞賛している。
一剣士としてだけに留まらず、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などの概念を包括した新しい兵法思想を確立し、後世の武術・武道に大きな影響を与えた。その功績を讃え、平成15年(2003年)には宮本武蔵と並んで全日本剣道連盟の剣道殿堂(別格顕彰)に列せられている。流派当主としては、新陰流(柳生新陰流)を将軍家御流儀として確立し、当時最大の流派に育て上げた。これにより、当時多くの大名家が宗矩の門弟を指南役として召抱え、柳生新陰流は「天下一の柳生」と呼ばれるほどの隆盛を誇った

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家光との仲
島原の乱の際、大将として遣わされた板倉重昌の敗死を予見し、派遣を撤回するよう家光に諌言した(『徳川実紀』『藩翰譜』)。またその際、落城までの流れを正確に予見したため、家光はじめ周囲は驚いたという
元和8年(1622年)、新陰流を全て相伝してほしいと家光に強く要求されたため、伝書二巻を与えたが、伝書の末尾に「技法はこれで全てですが印可は別物です」という旨を記して、家光を諌めたという。
寛永15年(1638年)、家光に兵法の事でかなり強い意見をした後、臍を曲げて1ヶ月ほど自宅に引き篭もったことがある。その際、沢庵が話を聞いたところ、「自分はなんとも思っておらず、全ては上様次第である。やましいことなど何もない、まっすぐなものだ」と答え、大笑いしたという。結局、その後、家光が宗矩の機嫌を取ったことで再び仲の良い状態に戻ったという。(『沢庵和尚書簡集』)
寛永19年(1642年)、宗矩が湯治に出ていた間、沢庵和尚が家光の御前に出る度に、宗矩の話が出ないことはなく、ある時は「宗矩から和尚に手紙はないか」と十度も尋ねたという
亡くなる前、見舞いに来た家光が「何か望みはないか」と尋ねた時、「息子達(三厳、宗冬)をどのようにされるかは御心次第で構いません。ただ、柳生庄に寺を建て、父宗厳を弔うため、末子六丸(義仙)を住職にさせて頂きたくお願い致します」と答え、自分の死後、所領1万2,500石と家財全てを将軍家に返上した。これを受けて家光は宗矩の遺志通りに差配し、所領と家財を三厳・宗冬・列堂に分配している。宗矩の死後、家光は「天下統御の道は宗矩に学びたり」と常々語ったという
家光は宗矩の死後何かあると「宗矩生きて世に在らば、此の事をば尋ね問ふべきものを」と言ったという

逸話
家光が宗矩の不意をついて一撃を加えようとした時、これに気づき、「上様の御稽古である。皆、見るでない」と大喝し、家光の悪戯を防いだという。
家光が宗矩が平伏しているところに「但馬、参る」と一撃を加えようとした時、敷物を引っ張って防いだという。
家光から大和高取藩5万石への加増転封を問われた際、これを断り、友人の植村家政を推挙した。その際、代わりとして「山姥の槍」を所望した。
家光に「檻に入って中の虎を撫でよ」と命じられた際、扇子のみを携えて檻に入り、気迫で虎の動きを封じて撫で、無事に檻を出たという
家光が辻斬りをしていると聞き、変装して先回りし、斬りかかってきた家光の剣を無刀取りで止め、これを諌めたという
宗矩が江戸城で敷居を枕にして寝ていた際、若い武士達がこれを驚かそうと障子を閉めたが、宗矩があらかじめ敷居の溝に扇を置いていたので、障子は閉まらなかったという。
能の名人観世大夫の隙を見抜き、これに感づいた名人に感嘆の声を上げさせた。これを聞いた家光は「名人は名人を知るとはこのことか」と讃えた。
乗馬の達人諏訪部文九郎と馬上試合を行い、先に馬を叩くことで相手の動きを止めて勝利した。家光はこれを「まさに名人の所作である」と讃えた。
『葉隠』内の逸話に、常住死身の境地に達した者を一目で見抜き、即日印可を授けたというものがある[要出典]。
年老いた後にも、背後の小姓の殺気を察知するなど、老いてもなお衰えなかったという(『撃剣叢談』)
飼っていた猿が見よう見まねで剣を使えるようになり、ある時、これを牢人と立ち合わせたという話がある。(『翁草』・『撃剣叢談』)
ある日、宮本武蔵に仕合を挑まれた際、「そなたの剣の境地は?」と問うたところ、「電光石火の如く」と武蔵の返事に「まだまだ修行不足」と挑戦を退けた。そこで逆に武蔵に問い返された時、自分の境地を「春風の如く」と返したという。(『鵜之真似』)
塚原卜伝に天下一を巡っても仕合を挑まれた際、「そなたは確かに強いが、今、わしを倒しても、家臣たちがそなたを逃がさぬであろう。それに気づかず挑むところが、そなたの未熟である」と諭したという話がある

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思想
宗矩の思想(兵法思想)は、その代表的著作である「兵法家伝書」にて詳しく述べられている。 実戦でどのようにあるべきかという兵法本来の思想だけでなく、兵法は如何にあるべきかという社会的な面からの思想も述べられているのが特徴である。

[社会的な面での思想]
兵法(剣術)の理想として「活人剣」を提唱した。
これは「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い『活かす』ための手段となる」というもので、戦乱の時代が終わりを迎えた際、「太平の世における剣術」の存在意義を新たに定義したものである。また、沢庵の教示による「剣禅一致(剣禅一如)」等の概念を取り込み、「修身」の手段としての剣術も提唱したことで、それまで戦場での一技法に過ぎなかった武術としての剣術を、人間としての高みを目指す武道に昇華させる端緒となった。これらは大きく広まり、剣術のみならず、柔術や槍術など、江戸時代の武道各派に影響を与え、その理念は現代の剣道にも受け継がれた

[実戦的な面での思想]
直接的な技法だけではなく、「心法」にも注目し、この重要性を説いた
ここでいう心法は観念的なものではなく、現代で言うメンタルトレーニング的な面が強く、相手の動きや心理の洞察、それを踏まえた様々な駆け引き、またいかなる状況においても自身の実力を完全に発揮し得る心理状態への到達・維持など、実戦における心理的な要素を極めることで、より高みに達することを目指したものであった。(その心の鍛錬のための手段として、禅の修行が有効であるとしている)これについて、技法を軽んじ、心法に偏重したと批判する意見もあるが、宗矩自身は『兵法家伝書』において、あくまで技法を完全に修めた上で、これを自在に扱うために必要なものとして心法を説いている。

(wikipediaより一部引用)
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